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韓洪九 × 朴露子 - 韓国史のウソを論争する(2/7) 2010.05.16

檀君お爺さんから始まる国の歴史

先ほど国史教科書の話が出ましたので、その話をもう少ししてみましょう。国史教科書のような場合にはもともと国定教科書だったのが検認定に変わってから少し多彩になって、今はいくつかの形があるのだと聞いていますが。

近現代史だけがそうでして、国史は未だに国定教科書体制で残っています。

国史はまだ文字どおり国史、すなわち国が作った歴史です。もともと国史という言葉が日本の言葉なのですが、その日本の言葉の意味を少し批判的に見るならば、それが国家の歴史ではなく国家の作った歴史だと見ることができます。ならば国家が作った歴史の古代、中世部分を見ますと、国家がはたして何を言いたくてこのような歴史を書いたかという意図を把握できるのではないでしょうか?韓国の国定教科書の古代史と中世史の部分を見ますと絶対に変えられない前提が少しずつ散らばっているのが目につきます。

古代の三国を例に挙げましょう。三国は正確に話せば一つの国ではありませんよね。高句麗の人と新羅の人々が相手を同じ国の人だと認識したなら、はたしてそこまで容赦なく殺せただろうかという純朴な質問も投げかけることができると思います。一方、新羅側で作った7世紀後半の金石文を見ますと「一統三韓」、つまり、私たちが三韓を統一したという話が出てきます。しかしそれは、見方によっては人を死亡寸前まで殴り終えてから勝利を得た人の凱旋歌のように聴こえたりもしますし、高句麗の人や特に百済の人はそう考えたとは思えません。実際に百済が敗亡してから多くの貴族が新羅で下級の官職につくよりは日本へ渡ってずっと高い官職につく道を選びました。815年に完成した日本の国家族譜の《新撰姓氏録》というものがありますが、それを見ますと貴族の姓氏の三分の一が韓半島系統であり、特に百済系統なんですね。北朝鮮の表現をそのまま模倣するなら、百済の人々は新羅の胸に抱かれるより私たちが仇だと考える日本の胸に抱かれることを望む人々がかなり多かったようですが、私たちの国家が作った歴史では三国が確かに私たちの民族だと話しているのです。その意図が何なのでしょうか?

それは私たちの国に限った話ではなく、近代国家が作られる過程で、いろんな国々が、最初に自分の国の歴史に境界を張りました。歴史に境界を張ってからは、どこまでを自分の領域にするかについて注目します。特に最近は、現在の領土とその領土内で行われた歴史を一致させようとする傾向が強いんです。代表的に中国の場合がそうです。近代国家というものは、ごく最近できたものなんです。国家は人類歴史以来、創成期から存在したものの、近代国家のように莫大な動員力と組織力を持つ国家はありませんでした。近代国家が歴史を本格的に叙述し始めるに伴い、自分の歴史を実際より引き上げようとし、周辺国家との競争において一定の自負心を与えようと試みます。ところで同じく自負心を与えようという試みだとしても、たとえば私たちが国を奪われた状況で自負心を与えようとする試みは、ちょいと涙ぐましい感じがあり得ますし、また、私たちが弱小国でいた場合は、国際社会に及ぼす危険性が少ないこともあり得ます。

しかし韓国の国力が経済的にも軍事的にも世界10位圏の国家になってみると、そのような試み自体がとても危なく見られるかもしれない部分がたくさんあります。特に先ほどパク先生が仰られており、私が卒業した学科の名前とも関係がありますが、国史という名称自体が「ナショナルヒストリー」なんですね。イギリスで自分たちの歴史を教えるとき「ナショナルヒストリー」だと言わず「イングリッシュヒストリー」と言い、フランスでは「フレンチヒストリー」と言うように、韓国も相対性を持つべきなのですが、一方では日帝清算を叫びながらも科目の名前はあいもかわらず「国史」なのです。このように、私たちの生活と頭の中に、無意識のうちに日本的な思考方式がとても強く残っている場合が多く見つかります。

今の領土を持ってして自分たちの祖先が領土をこんなにも多く持つほど偉大であり、自分たちがいま同質の集団をなすように祖先たちも同質の集団だったという程度のウソをつかない国家はあまりないようです。フランスのある教育者がしてくれた話ですが、フランス植民地ではアルジェリであれベトナムであれ、国史を学ぶとき「私たちの祖先であるゴール(Gaul)民族」と読まなければならなかったようです。実際にベトナムの人々の中にフランス植民地のときに教育を受けた人たちは、そのような経験を持っているんです。当時、ベトナムがフランス領土でしたから、ベトナムの祖先は自動的にゴール族になると言った形です。そのように近代国家ほどになれば、今の自分の領土と誇らしい歴史と伝統を同一視しない国家はありません。

たとえるなら中国がそのようにするときは、私たちがとてもカッカするではありませんか?中国が東北工程をするのもまさにこれなのです。間島だとか満州が古くから中国の領土だったのにそこに昔は高句麗という国があったので、ここが今の自分たちの領土であるため、高句麗も自分たちの歴史という論理です。私たちとしては極めて不愉快なことですが、実は百済と高句麗、新羅が同じく私たちの民族をなしたという話と東北工程に基本的に含まれている理念に、はたしてどのような違いがあるのでしょう?

私は東北工程を、少し別の角度から見る必要があるという考えです。たとえば高句麗問題に限って言うと、中国が以前までとまるで違う話を、とても唐突に持ち出して話しているわけなので、私たちからするととても不愉快で当惑してしまうのです。中国がなぜ東北工程を掲げるのか?東北工程だけでなく西北工程もあります。大きくは中華工程プロジェクトも掲げていますが、そのプロジェクトによれば中国の地で行われた歴史はすべてが中国史であり、中国の地で住んだ人々はすべてが中華民族だというのです。たとえば私たちが金や元、それか清王朝を、移民族が入ってきて漢族を占領したという意味で征服王朝だと習ったでしょう。中国の王朝は漢族が中元を掌握して、北方民族が入ってきて征服王朝を立てて、また漢族が反乱を起こして明になって、また清が下りてきたりしながら代わる代わる交替しています。中国歴史ではこれがとても重要なテーマでした。万里の長城を建てるほどですからね。ところが今は何と言うかというと、「中華民族の偉大な英雄チンギスカン」だと表現します。たぶんしばらく経てば中国の文字で記録されたすべての歴史は中国史だとするほどまでに進んでいます。

では、中国がなぜそうするのか?それは中国という国が様々な少数民族で構成されているからです。韓国のような場合は中国とまったく違った様相ですが、中国としては冷戦体制が崩壊した後にバラバラになったソ連の状況が最悪のシナリオなので、それを防ぐために中国の現在の領土を完整しようとするのです。その末に、ただ今の領土を取り締まることに留まらず、歴史の中まで遡っていき、歴史の城を建ててしまうという、そのような意図があるのではないでしょうか。

東北工程という部分について、私たちは侵略性のみを強調しますが、もちろん侵略性については警戒すべきですが中国全体の状況も見てみるべきです。中国は以前まで社会主義国家の中でみんな同じく平等でしたでしょう。平等に貧しく、平等に抑圧され、また夢を見て分けあうことも平等に。そんな長所と短所を同時に持っていました。今や中国はどうなっています?中国へ行けば超の付く金持ちが5,000万名以上います。うちの国の江南へ行けばいるようなランクの金持ちが韓国の人口ほどいるのかと思うと、反対に山の奥に入ると本当にどうしようもなく貧しい人々がいる、とてつもなく急変する社会変動を改革・開放以降に経験しているのです。そのような中で社会変動がもたらす葛藤を抑え込み、秦始皇が死んで以降、毛澤東が再び築き上げた大帝国がバラバラになるのを防ぐため、家の中を取り締まっている性格もあるのだと思います。

はい、そうですね。私は韓国の領土的な民族主義を考えるたびに「私たちはハンギョレ(同じ民族)だ。檀君の子孫だ」という歌が思い浮かびます。実際に韓国の国史、すなわち国が作った歴史を見ると基本設定がこうです。教科書の真っ先の開幕戦の部分では古朝鮮という私たちの民族の最初の国家が出てきます。古朝鮮という最初の民族国家が登場してから、その国家が没落した後、やはりそれを継承した私たちの民族の三つの国が生じ、その次に同じ領土で同じ韓民族の歴史が作られるのですが、この過程でとても面白い部分が一つあります。

そのとき現実にもっとも近い証拠物は、後から書かれた《三國史記》や《三國遺事》よりも、当時に書かれた金石文の数々です。その時々に残した碑文だとか公文書や私文書などが、最近の歴史学者たちが好む言葉で「古代からの通信」です。ところで面白いのは、新羅や高句麗から伝わった通信の数々は直接読んでみると古朝鮮の話があまり出てこないのはもちろんのこと、檀君の名前が一度も出てきません。新羅の碑文を見てみると、金閼智以降の新羅の王たちが漢に帰化した匈奴の首長、金日磾の末裔だというなどの荒唐無稽な話が多いのです。いうなれば中国の歴史と結びつけてよさそうな荒唐無稽な話がたくさん出る反面、檀君と古朝鮮の話はあまりないのです。

実際に檀君と古朝鮮が現れるときは13世紀で、モンゴル侵略という国家的に大きな脅威が目前に迫ったとき、それに関する最初の記録が見られるのです。これこそが古朝鮮の国家的神話、すなわち天孫神話を高麗末期によみがえらせたという国内学会の通説が成立した背景です。檀君が私たちすべての祖先だと思われるためには、もう少し早く歴史の舞台に出るべきなのですが、あまりにも遅く人為的に思える方法で登場するのです。

その次に面白い部分が、檀君が高麗末期に登場して朝鮮時代には檀君の墓も出たり檀君に祭事を行ったりしますが、実際に朝鮮のソンビたちが私たちすべての祖先であり私たちの文化の偉大な元祖だと考える人は、檀君よりも箕子だったという点です。それなのに檀君がいきなり華麗に浮上するのは、日帝侵略期に宗教的崇拝の対象として登場してからなのです。民衆は檀君をあまり知らないでいたのですが、当時に檀君宗教、つまり大倧を作った人々は当時、高級インテリたちだったのですが、その中で有名な方が湖南のユリム(儒林)ナチョル(羅)先生です。この方がどうやって檀君を引き入れたかという話からして面白いんです。先生は乙巳勒約が結ばるとき、これを止めるために日本へ行って、いわば外交戦を繰り広げようとしたのですが、これといった成果を上げられませんでした。代わりに日本で見てきたものがあったんです。

日本には「国家神道」というものがあります。アマテラスオオカミ、すなわち太陽の女神を称える国家宗教で、日本人たちの民族的な同質性を強調するための近代的なパッケージです。ナチョル先生がそれを見て、私たち朝鮮には檀君がいるのに、日本人にできることが私たちにできないものかと言いながら、それに着眼して作ったものが大倧です。大倧は日帝時代まで、人気宗教の一つであったし、結局は大倧から派生したものがかなり多いんです。たとえば白頭山の天地がその名を持つようになったのも大倧の伝統だと見るべきだと思いますし、開天節という記念日はイスンマン(李承晩)時代、一民主義という名の国粋主義イデオロギーに従って指定したのですが、大倧の伝統を生かした側面があります。檀君は高麗末の一時のみ登場してから徐々に退場してから、その次には開花期後期、日帝初期に再び華麗に復活して私たちすべてが一人の祖先の末裔だという血統的近代民族主義の神話として復活したのです。

私たち全国民が檀君お爺さんの子孫だという神話を持つようになったのは、早くて1950年代、1960年代ではないかと思われます。その時から学校で教育が行われましたし。さっき箕子の話をされましたが、族譜上では私が箕子の子孫です。(聴衆笑)韓氏、寄氏、鮮于氏、三つの姓氏の族譜を見れば、箕子へとさかのぼるんですよ。

あっ、箕子ではなく箕聖ですよね。朝鮮時代には箕子を「聖賢」だと見ていました。

ですが、実は朝鮮時代には、檀君お爺さんの子孫だという意識を持てば大変なことになるわけです。檀君お爺さんの子孫なら、ここに集まったすべての人々がみんな同列なんでしょう。ところで朝鮮時代に、そのようなけしからん考えがありえますか?班常の法度を崩す考えです。兩班と賤民の間、良人と賤民の間には超えられない壁があるのです。朝鮮時代には少なくとも概念や法制上では平民である良人と兩班の間に区分を置いていません。つまり良人も科擧試験を受けることができ、兩班官僚になることができましたが、良賤の区分は天の法度だったのです。種子からして違うわけですがみんな同じく檀君お爺さんの子孫だなど、朝鮮時代でしたら殴り殺される話です。みなさまも家に帰ったら族譜を探してみてください。うちは族譜の一番最初に箕子が出ますが、うちの韓家族譜に箕子を入れたのは、うちの直系先祖様で、歴史本に載っている歴史家でおられました。

朝鮮の族譜を見ると面白いところがあります。私の妻は姓氏が白氏なんですよね。ところでその門中で自慢している事実の一つが、自分たちが唐の偉大な詩人白樂天、白居易の子孫だということです。白氏の中に白斗鎭元総理だっていますし有名な方々がたくさんいますが、その誰よりも唐の偉大な詩人を挙げて門中の自慢だとするではありませんか?

韓国の姓氏の中で人口で数えて約40パーセントから50パーセントほどは帰化姓氏だろうと思います。実際に帰化族がそんなに多いかと聞かれますとそうでもありません。本の中でウソを一番多く記録しておいたのが族譜だろうと思います(聴衆笑)百年前に族譜を持っている方がおられたでしょうか?百年前へさかのぼって行くと、韓国人口の中で族譜に登載された人が15パーセントから20パーセント程度しか至らなかったでしょう。ところで今は初等学校(小学校)で族譜を移し書きしてこいと言われると書いてこない子がいません。それほどまでに族譜が広まったこと、それもウソだと言えます。

パク先生が檀君の話も多くされましたが、私も文を書いたのですけど、興味深い点が、ナチョルが東京で得度をしたということです。白頭山天地で得度したわけじゃないんですよ。その部分はパク先生が仰られたとおり、日本で国家神道を掲げながら強力な動員力を獲得したのと関連があります。その前までは日本で住み日本の言葉を使っても日本人という意識がありませんでした。なぜなら日本人という意識は中国の人や西洋の人に会ってこそ生まれるものなのですが、会ったところで誰に会うことができましょう?せいぜい近接した地方の人なのです。私たちの国でたとえると、お前はどこの人だという問いに嶺南だとか湖南の人じゃなくて郡単位で善山だとか栄州の人だと答える人同士で交流してきたのです。民族のアイデンティティなるものが生じたのは、それぐらいたくさんの交流が行われた後からだったはずです。ナチョルが日本へ行って日本が国家神道を復興するのをみて得度してから、韓国に来て大倧を作り上げます。その所以なのか、日本神道のほうで出た本や日本神道で韓国の《桓檀古記》のような本を翻訳したものを見ますと、ナチョルの大倧を日本神道と極めて近い宗教として叙述します。日本神道は、それもまあすべてウソなのですがすべての宗教が神道から派生したと見ていますが、その中で韓国の大倧がとても高い位置を埋めているとしているのです。

この大倧が檀君を祭るのが歴史上の真実か否かという形で接近すれば、とても悩ましいことになります。事実ではありません。しかし私はあの当時に歴史的にどのような意味を持つかがより重要な部分だと考えるのです。私は1910年を前後とした時期に檀君を掲げたことはとても良くやったことだと思います。それを掲げた人々は当時の基準だと超特急のインテリたちでした。なぜなら日本帝国主義の侵略を受けて国が傾くと大衆が参加して立ち向かうべきですが、それをどうすればいいのです?何を持ってして結束させます?そのために檀君お爺さんを持ちだしたり、ムクゲを持ちだしたり、白衣民族を持ちだしたり、アリランを持ちだしたり、そのように私たち民族のアイデンティティで結びつけられる部分を掲げたのです。このような方式が当時の民族主義運動の動員戦略としてとても重要で効果的だったと思います。

ですが、これは初期抵抗民族主義の動員戦略として有効性を持っていた時期にかぎってのみ、進歩的だったと言えましょう。この時期はシンチェホ(申采浩)先生やキムギョホン(金獻)先生が《神檀民史》、《神檀實記》のような本を書くときに主に行列字を「神檀」だとして「檀」について書くときですが、このときまではそれなりに相当な儒教的合理性を持っていました。

しかし1930年代に入って「桓」が強調され始め、話がまったく変わってきます。なぜなら1910年までは、なんとか檀君お爺さんを掲げれば抵抗民族主義イデオロギーとして相当な機能をしたのですが、1910年代に入り、1920年代に3・1運動を経てからだと、早い話、薬の効き目が落ちてきたのです。檀君お爺さんだと言って動員できる、参加させられる力が落ちます。徐々に階級的矛盾のようなものが具体化する時期にみんなが檀君お爺さんの子孫だとか、階級的葛藤が深刻に存在しているのに私たちは一つの血脈で同じ子孫だとばかり話したところで問題が解決するでしょうか?そうなるとイデオロギー的に様々な分化が行われ、大倧に集まっていた人々が社会主義へ行ったり、アナーキズムのほうへ行ったり、自由民主主義のほうへ行くなど、様々な枝分かれが行われるのです。その中でひたすら檀君に固執していた人々が、檀君だけだと薬が売れないものだから檀君お爺さんのお爺さんを持ちだしてきたんですね。それで《桓檀古記》のようなものが出てくるのです。発音に気をつけて言わなければなりません。下手すると「荒唐古記」になります。(聴衆笑)

檀君を掲げることにおける進歩的な性格が完全に喪失したとき、それに対する反動として出てきたわけです。私たちが注射を打つとき、注射一つでダメな場合は別の方式で治療するべきなのですが、ただ注射ばかり二発、三発と繰り返したあげく、そこまで行き着いたのです。

韓洪九 × 朴露子 - 韓国史のウソを論争する(3/7)

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