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韓洪九 × 朴露子 - 韓国史のウソを論争する(7/7) 2010.05.21

健康な歴史観のために

聴衆3 私は最近、一番恐ろしい嘘は公然の嘘、すなわち二重的な嘘だな、ということを感じました。たとえば誰もが人を殺すことを悪いと考えますが、パクチョンヒが人を殺したことは気にすることないということとか、それともセクハラが悪いと言いますが、酒に酔って乱心すればあり得ることだと言うなどのことが、とても恐ろしいことだと思います。最近、おびただしい性犯罪が何件も起っていますが、よりおびただしいと思えるのが、ほかでもない判事たちの判決だったんです。初等学生(小学生)を性暴行し殺害した人に15年懲役を求刑してから怒りのあまりこれだけ求刑したのだと話すことを見て、私は基本的に同業者意識ではないのかという気さえします。

どういうことかと言いますと、性犯罪であれ、それともパクチョンヒに対する美化であれ、そのことを犯した加害者たちは罪の意識を持ちませんし、それに同調する大衆たちは省察を行わないという気がするんです。ですが、あまりにも単純なことでしょう。省察というのは、人を殺してはいけない、セクハラをしてはいけない、性犯罪を犯してはいけない、幼い子供を保護すべきだという基本命題について知識がなくても共感することですが、私たちがどうしてこのおゆに省察をしないようになったのか気になります。また、どうすればより早くそのような省察をやっていけるのか、そしてそのような省察を防ぐ原因はなんなのかも気になります。

今までずっと歴史の話をしてきましたので、結局は歴史の中で男性の行動が、はたして女性にどんな影響を及ぼすのかが問題の原因だろうと思います。あくまでも今、私たちが持っている歴史書は男性の歴史です。男性の歴史が女性にどんな影響を及ぼしたか?たとえば新羅と百済が戦う頃、それが婦女子たちにとってどんなことだったのか。戦争というものが女性にとってはいつもそのように幾人も連れて行かれ、奴隷にされ、強姦をされることなんです。戦争について単純に政治史的なそんな立場で見るより、このように「女性の立場から見た歴史」という観点が必要だと思います。

もしくはある社会の性格を既定するときも、はたしてその社会で女性がどんな立場を持っていたのか、すべての階級社会でいつも男性たちが女性を差別して暴力を行使してきましたがはたしてこの社会はどうかという観点が必要なんです。たとえば殆どの歴史教科書ですと朝鮮社会が高麗社会に比べて進歩的なものとして記述されており、新進士大夫たちが立ちあがってずっと合理的な性理学的国家を作ったという話が出ますが、実際は女性の位置は朝鮮が作りだされたとたん、はるかに格下げされた。奴婢たちのような場合はそもそも身分上昇の道が塞がられてしまいましたし。高麗時代には女性が、たとえば婚外関係においてかなりの自由を享受していましたし、そのため映画<オウドン(於于同)>に出てくる話は、高麗時代で考えると普通だとは言えませんが、とにかく当時の女性が取れる一つの行動方式だったのです。

ところが朝鮮時代が始まったとたん、私たちがとても善良だと考える世宗大王様が、1423年度にある高級官吏の婦人が別の高級官吏と姦通したからと、どうしろと言ったかご存じですか?女性を3日間市場の通りに立たせていじめた後に斬形に処し、その女性と姦通した男性は功臣の子孫だからと流刑させる線で留めます。世宗は透徹した性理学的意識を備えた方であり、姦通した女性は斬形に処しても行き過ぎではないと考えたのです。あとで後悔したといいますが、後悔したってなんの意味があります。(聴衆笑)私たちが世宗大王や朝鮮という国家の性格を考えるときに、このように女性の立場から見るのが良いのではないだろうかと思います。

今の返答も良い返答でしたけれど、女性を抑圧する男性についての質問というよりは、一人を殺せば殺人者だが千名を殺せば英雄になり、ある犯罪については沈黙し、さらには同調までするあの集団の態度をどう見るべきか、というような質問をされたと思いますが?

最初と最後に本当に答えるのが難しい女性問題が出ましたね。韓国社会で特に軍隊問題のような場合は、被害意識と同流意識が強く作用するために自分自身も自由ではいられない部分があると考えています。そして軍隊で絶え間なく再生産されている女性卑下的問題もあります。その女性卑下には軍隊生活がつらかったために、それをしなくてもいい女性たちに対する一種の敵愾心のようなものに加え、自分たちのつらいところをわかってくれないという気持ちまで上乗せされ、いろんな感情が重なっているのだと思います。結局、すべての問題について短期間に解決する処方を出すことはできないでしょう。

私もこの場に来る途中でヘッドラインのみ読んできましたが、もちろん15年というものが決して短い形ではなく、いままで性犯罪者たちを処罰した慣例に比べると重いものかもしれませんが、未成年者性暴行に対する最高求刑量が15年ではないだろうということを考えました。しかし、歴史的に見てそれは刑事処罰を強化することだけで解決できる部分では決してなく、女性たち自らがそのような問題についてどう発言し、参加するかが重要です。そのような部分が韓国社会で変化をもたらし得ると思いますが、韓国社会は驚くほどに大変間違っており遅れている部分も多い反面、民主化運動と経済成長の中でそのような問題を解決できる潜在的可能性もかなり大きくなったと思います。それで、いま記者にセクハラを働いた議員を辞退させられないことを見て残念がる方々が多いのですが、すぐにその人をどうにかすることはできなくても、この事件は韓国社会のある基準自体が、最近の数年の間にとてつもなく変化したことを表しています。また、辞退しないで耐えたところで何日持つでしょうか?そんな面から見て、私たちの社会が間断なく変わっていく軌道に乗っており、もうその軌道を走る速度をどうやってもう少し早めるかはみなさまの分ではないだろうかと考えます。

悔しさはお察ししますが、歴史が進歩するのをもう少しだけ待ってみろというお言葉のようにも聞こえますね。(笑)

聴衆4 こんばんは、私はサラリーマンです。先日、地下鉄ストの真っ最中だったとき、私がバスに乗って家に帰りながら感じたことです。バスに人がとても多かったのですが、その日、ちょうどサッカーだっけ野球だっけの競技をしたのです。人々がラジオ9時ニュースで30分以上その知らせを扱うことを聴きながらとても楽しそうにしているのを見て、すごく不思議だったんです。ある事柄で負けるのと勝つことの二通りの状況があれば、殆んどが自分が勝つほうを考えることが多いようです。地下鉄ストの場合、自分が不便を感じながらも会社側の立場に立っている面があるようですし、サッカーで私たちが勝ったときにかなり喜ぶのもそう感じます。それで地下鉄ストのような状況で、自分は勝者というより実際には弱者の立場に近いというのに、自分が被害を被ることが少しでもあれば、それを自分が勝者側だからそうだと考え、自分より弱い人がいれば弱い人はもっと低くなってもいいというふうに考えることが多いんです。アメリカとの関係でも、アメリカとイラクが戦争をすることを見て、そのような状況を打開するには私たちが強くなるべきであり、弱者はもっと弱くなってもいいという立場があるみたいなんです。

簡略に申し上げるなら、自分が強者になるべきだという立場が日に増して多くなっていく気がします。強者の立場に視線を固定させ、そのように見る場合が多いのですが、さっきハンホング先生が私たちがもう少し国力が強くなってこそ日本に対するコンプレックスがなくなるとおっしゃいましたけど、むしろ私は弱者の立場で見てこそそのコンプレックスについての考えそのものがなくなると考えています。そこについて、どうお考えでしょう?

良い考えです。コンプレックスというのが何かといいますと、相手と立場が同じになりたいのに差が出るから生じるものなのです。私も財閥2世のように金を際限なく使いたいのに、うちの父親は財閥や成金じゃないから、そのようなとき、それを見ながらコンプレックスを感じます。しかし、自分自身の位置についての自負心や自肯心のようなものができれば、当然そのコンプレックスから離れられるでしょう。ただ、先ほどお話された地下鉄ストやイラク戦争のような事柄は、歴史的に見て支配階級が被支配階級に教育や宣伝を通じて絶え間なく強者の立場を注入し、強者と同一視するようにして、結局、そうしたほうが気が楽になるように洗脳させたからなのです。

今日、歴史学ないし歴史家たちをたくさん批判しましたが、改めて同じ職業を持つ仲間意識を発揮して、(聴衆笑)歴史を知れば世の中が見えると申し上げたいと思います。今まであの話、この話と、古代の檀君お爺さんから現在の問題に至るまで行ったり来たりしましたが、それはあくまでもパクノジャとハンホングの考えであり、みなさま自らはどう考えるか、自分の目で世の中を判断しないといけません。二人がたくさん喋りましたが二人が話した殆どすべてが嘘だとして何が本当なのかも、一度探してみてください。ここで本当というのは何かの絶対的な基準があるのではなく、自分が見てあの話は本当に思えるという部分のことです。つまり、みなさま独自の観点で歴史を見て世の中を見るとき、もう少し賢明になることができるのです。

今日の主題は嘘でしたね。さっき司会者の方に嘘の色を問われましたが、嘘の味見をしろといわれますと、嘘をついて成功した人からすれば甘いはずです。嘘の誘惑がどれほど大きいものかを知らしめる事例があります。正直に生きろという言葉ほどの嘘も、なかなかないのですが、(聴衆笑)正直について童話の本で出てくる話はなんです?ウォーシントンの桜の木の話ではありませんか?斧で切りつけたという。ところがその話が嘘だというではありませんか。(聴衆笑)それがいつ挿入されたのかわからないし、どこにも根拠がない話だといいます。それだけ嘘というものは甘くて誘惑が多いため、私たちがこの世で聞くかなり多くの話に嘘が混ざっています。だからってすべてをひたすら疑えということでは決してありません。そうすれば疲れ果ててしまいます。合理的な疑い、根拠のある疑いを抱くべきだということです。そしてみなさまが、それなりの視覚を磨いて持っておられるとき、精製された情報を持ってみなさまに提供されるさまざまな話をそれぞれの目で判別して見るとき、嘘に騙されず、嘘と真実を区分できるのではないかと思います。

私も簡単に結論の形で話しましょう。子供たちがする質問の中で「これはどうして?」ということが多いですよね。「なぜ」という言葉をとても好むでしょう?「なぜ」というのは結局は外から私に注入されるすべてを私の基準で測ってみたいという意志の表現です。

たとえば、普通、ワールドカップのような大きな競技があるとき、ニュースは全部スポーツニュースになり、新聞は一斉にスポーツ新聞化したりするではありませんか?さっきバスであったことについて感じたところがあり話してくださったように、子供の気持ちでは、野球試合のせいで大人たちが笑って泣く光景を見ながらアジアで野球をこんなに好きな国は韓国と日本しかいないのかと考えるかもしれません。日本の野球は西欧のように富強な国になりたくて西欧のスポーツまで正確に複製したもので、私たちの国の場合は日本が複製したものから影響を受けましたが、さらに直接的にはアメリカの牧師から学びました。一時は日本の人々と野球試合をするときに私たちが勝つことで朝鮮に希望が見える、そんな時期もありました。とにかくいま民族のすべての誇りを野球にかけるところを見ると、私たちの民族主義がはたしてどこまで深い歴史を持っているか、私たちの民族主義が野球にこのようにすべての価値を与える、そんな民族主義なら、はたして私たちの民族主義は前近代より近代のほうにずっと近いのではないかという考えが浮かぶかもしれないと思います。このような気持ちでニュースを見れば、そう見ることもできると思うのです。

また、サッカー試合をするときは、広告板を出した企業たちが主催側にはたして金をどれだけ払ったか、このボールを作ったパキスタンの子供たちの日当はいくらだったかが気になるかもしれません。サッカーボールの殆どがパキスタンやバングラデシュで子供たちが手で作るものですから。そして運動選手たちが着ている服がナイキや西欧の衣類会社で作った服ならきっと中国にある下請工場で作ったはずですが、はたしてそこの労働者たちは日当がいくらだっただろうか?とにかく世の中の万物を見るときにこういうふうに見れば、すべての嘘を全部暴くことはできないでしょうけど、少なくとも騙されることは減るのではないかと思いますが、しかしながらそうやって生きる方法が、言うなれば少し疲れる生き方なのです。(聴衆笑)ですが、少し疲れるとしても幸福になることはできます。

パクノジャ先生が私たちに禅問答的な話頭を一つ投げてくださったようです。ただ流されていくのではなく常に「なぜ」という質問をしようという。

韓国近現代史のいろんな嘘の中で、過去清算に関連する嘘について語る時間があったら少し面白かったと思うのですが、今日それを話せなかったことが少々残念です。韓国史に嘘が多いのも事実ですが、一方では嘘が徐々に通じない社会になっていっていることも事実です。みなさんは20年前の富川署性拷問事件をご存じですね?20年前にはその嘘が上手く効きました。少なくともその当時には。それが暴かれるのに3年ほどかかりました。パクチョンチョル(朴鍾哲)君事件が起きたときも、机をドンと叩いたらアッと言って死んだという、話にならない嘘をつきながらそれを信じろというものだから、国民たちがバカにされた気がして信じなかったとお思いでしょうが結局、それが暴かれるのには二日かかりましたし、事件を隠蔽・操作したことが明かされるには四カ月をもかかりました。民衆たちがなぜ嘘について話しますか?とてつもなく多く騙されてきたために、騙したことより騙されたことがずっと多い生を生きるしかなかったからです。ところが今は騙されない能力ができ、騙されても「ああ、あれは嘘なのだな」ということを悟り、それを正す力がかなり増えたのです。私はそれが民主主義の発展であり、それが人権だと考えています。そのような点で、私たちが人権伸張のためにも歴史を勉強する必要があるのではないかと思います。

個人的に今日、マイノリティについての歴史がないという反省が一番胸に響きました。ならば今まで私たちは片方だけの歴史を学んだのではないかという気もしますし、これから資本主義の中で私たち消費者が両目を見開いてしっかり見つめてこそ、歴史学者たちもしっかりと健康な歴史観を叙述するだろうとも考えました。私たちみんなで、歴史学者たちを両目を見開いて監視しましょう。お二方に感謝申し上げます。(聴衆拍手)

―「21世紀には変えるべき嘘σ」(2006、ハンギョレ出版) 108p~164p

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2010.08.24 | | # [ 編集 ]

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